説教要約

今週のメイン聖句

ガラテヤ2:20

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

2023.05.21 聖日礼拝

「怒りは聖霊を悲しませる」

引用聖句

エペソ 4:29~32

29. 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
30. 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31. 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
32. お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

説教要約

(1)伴侶に対する怒り
怒りは聖霊を悲しませる。私はいつも神様に喜んでいただこうと祈っています。遠くの人を怒る人はほとんどいません。私の場合ですと一番近くにいる家内に怒ります。私の欠点を一番よく知っているのは家内です。リハビリーの先生から歩くときに膝を曲げて歩いていると注意されると、ひざを伸ばして歩こうとします。

家内から、私が気くばりを出来ないことを注意されると、むかっと来るのです。気くばりが出来ないことを教えてくれてありがとうと言えれば、満点です。怒りは神様を悲しませることです。私はいつも神様に喜んでいただこうと祈っているのに、怒ってしまいます。私と家内を結婚に導いてくれたのは神様だと思うと感謝が湧き出てきます。


(2)両親からの影響
私のお爺さんは、私の父が生まれてすぐにアメリカへ金儲けに行きました。15年たってお金をたくさん儲けて日本へ帰ってきました。父は、おじいさんと遊んでもらったことはないそうです。お爺さんは田んぼや畑をたくさん買って、雇人をたくさん雇って働かせたのです。父も雇い人の一人のようにこき使われたそうです。

父はむなしくなり台湾へ警察官としていき、そこで母と結婚するのです。父はおじいさんと遊んでもらったことがないので、私も父にあそんでもらった記憶はありません。父は子供と遊ぶ遊び方を知らないのです。私は父から叱られたことは一度もありません。ですから先生から叱られても、どう謝ったらよかわからないのです。まして家内から注意されるとむかっと来るのです。私だけではなく親にどのように育てられたかが私たちの人格形成に大きく影響しているのです。


(3)柏木哲夫先生の本「人と心の理解」という本から
ある婦人が、肩凝りがひどく、首も凝っているので、先生の所へ診察に来ましたが、先生は整形外科の先生に紹介しました。整形外科でMRIをとって調べたが、どこも悪いところはない、これは心の問題だというので、柏木先生の所へ返されました。

先生がいろいろその夫人に尋ねてみると、ご主人は会社のことが忙しくて、家にいても疲れてごろごろしているだけで、私のことに気を使ってくれない。ちょっとでも気に入らないことがあると怒り出すそうです。そして私に注意ばかりしているというのです。私はそんな主人に腹が立つのですが、その腹立ちを飲み込んでしまうそうです。そして黙り込んでしまいます。もう口なんか聞きたくないと思います。

主人は私の欠点ばかり目に付くようで、口を開けば私に対する文句や不平ばかり、それを聞いていると私は何も言えなくなって、泣いてしまいます。私が泣くと主人は黙り込んでしまいます。主人がもう少し私の事を考えてくれたらと思います。簡単なんことを決めるにも、二人の意見がなかなか一致しないのです。すぐに感情的になってしまって、お互いを責めるようになります。

もうご主人のことはあきらめて、せめて子供だけはと思い、一生懸命育ててきました。でも娘は大学卒業と同時に結婚します。その後、主人と二人きりになると思うとうんざりします。これは多くの家庭で起こっていることではないでしょうか。


(4)コミュニケーションを妨げる物が3つあります、
「怒り」「涙」「沈黙」です。このご夫婦もご主人が怒ると奥様は黙ってしまいます。これではコミュニケーションが成り立ちません。

エペソ 4:26
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

柏木先生は、昼間奥さんとの間に気まずい思いがあっても、夜寝るまでには二人で話し合って祈り、平和な心で眠りにつきたいと思います。と言っておられます。


(5)家内との間でコニュニケーションがうまく行かない場合は、
家内に問題があるので家内を直そうとしています。しかしカウンセリングで学んだ事は、「過去と他人は直らない、直す事が出来るのは自分と将来だけ」です。相手を直そうとすると相手は怒こります。自分を直そうとすると、なかなか直らないので、相手を攻め無くて済みます。

私と家内を結婚させてくださったのは神様ですから、神様が何とかしてくださると信じることが出来ます、相手を責めなくて済みます。


(6)怒り=普遍的な罪
ヘンリーブラント博士は、怒りは、人類の持つ普遍的な罪の一つである、数百人のカウンセリングをして、私は「あらゆる緊張の根源は怒りと恐怖のどちらかである」という結論に達したと言っています。


(7)怒りによる莫大な損失
(ア)情緒的に
抑圧された怒りは、情緒的に人を狼狽させ、このような状態のもとでは、人はとかく有害な、決定をしてしまう。しかしもし私たちが、怒りに身を任せるなら、怒りの故に妻子に対する愛を現すことが出来ず、自分の家族と楽しむ代わりに、怒りをぶちまけてしまうのです。「私が誰かを嫌い始めた瞬間、私はその人の奴隷になってしまう。彼が私の思いまで支配してしまいます。」

(イ)社会的に
怒りぽい人がいると不愉快です。その結果、怒りっぽい人は社交のリストから外されていきます。集まって冗談を言い合うときにも仲間外れにされてしまいます。これは夫婦間でも、怒りっぽい人がいると、払わなければならない犠牲です。


(8)キリストを受け入れていない人
人間の最も重要な部分は、「知力」と「意志」と「感情」です。人間は「知力」の中に何を入れるかによって感情的に影響されるのです。知力の中に何をいれるかはその人に意志によって決まります。神様に従わないことを知力によって意思決定すれば、神様に喜ばれないような行動を始めるのです。

すべての罪は「知力」から始まります。人は殺人をする前に、怒りを「知力」の中に秘めているのです。人は姦淫の罪を犯す前に、「知力」の中に情欲を抱いているのです。一方、聖書は、「神様が人間のさまざまな感情を抑え、正しい道に導いてくださる」と教えています。ある人が「あなたは読むものに似たものになる」と言っています。

人は好色文学を読むか、聖書を読むかを選択する。何であれその人が自分の「知力」の中に取り入れる物によって影響される。神様に喜んでもらいたいと思えば、そのように行動するのである。

「霊的」に
怒りっぽく苦々しい性質のために最大の損失を受けるのは、霊的な領域である。イエス・キリストはクリスチャンが死ぬとき永遠の命を与えてくださるばかりでなく、今ここで豊かな命を与えるために来られたのです。そのような生活は「御霊に満たされる」ことによってのみ与えられるのです。聖霊を悲しませるような人は誰も、御霊に満たされることはできません。

ガラテヤ 5:19~21
19. 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20. 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21. ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

肉の行い=自己中心

マタイ 16:21~23
21. その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22. するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23. しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロは、善意で「イエス様が十字架につけられて殺されるはずはありません」と言ったのです。クリスチャンは善意で行動をしています。しかしいくら善意でも、主のみ心でないことは、自分の考えなのです。自己中心なのです。そんなことを言ったら「自己中心でない事はあるのですか」あります。

マタイ 22:39,
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』これは自己中心ではないです。

Ⅰヨハネ 5:14,
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。


(9)怒りの根本原因
平安で、好ましく、おだやかな人が突然怒り出すことがあります。いったい何が原因だったのでしょう。「私は怒りっぽい性格で」とか言ってごまかす人がいますが、仮面をはぎ取ると、その人の本当の原因は「自己中心」という罪が原因なのです。

私が怒ったことを反省してみるとすべては「自己中心」が原因です。私の「自己中心」は自分の娯楽の為ではなく、伝道のための自己中心なのです。家内に言わせると、競輪競馬の為であれば文句が言えるが、伝道の為だと文句が言えないというのです。良いことであれ悪いことであれ怒りの原因は「自己中心」が原因です、反省しなければなりません。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

Ⅰヨハネ 5:14,
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

【説教:大木英雄牧師】

2023.05.14 聖日礼拝

「地の塩、世の光」

引用聖句

マタイ5:13-16

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

説教要約

①迫害の中で現される神の栄光

今日の箇所でイエス様が言われた言葉は、「世界に対して、キリストの弟子となった者たちが証しを立てる力を持っている」という意味です。

「心の貧しい者は幸いです」ということばから始まり、「平和をつくる者は幸いです」と神様とともに生きる人について、イエス様が特徴を述べられました。イエス様に出会った私たちが変えられて、神様のお働きが私たちを通して流れ出ていく様です。
ところが、世は義のゆえに迫害します。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
マタイ5:10-12

キリストにある平和をキリスト者はつくるのですが、キリストに服従したくないと思っている人にとっては、煙たい存在でしかありません。けれども、迫害を受けた時は幸いだと思いなさいとイエス様は言われました。
しかも単に、迫害を耐え忍ぶのではありません。むしろ、迫害を受けながら、なおのこと世にいる人々が神をあがめるようになっていくのだというのが、イエス様が言われていることです。
これは聖書の至るところで見ることができます。

出エジプト記では、エジプトの奴隷になっていたイスラエル人を神様が顧みられました。
しかし、「神に礼拝をささげに行かせてください」とエジプト王パロにお願いをした日のことでした。

その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。
「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。
そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください』と言って叫んでいるのだ。
あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」
出エジプト5:6-9

エジプト人は以前よりもイスラエルを荒く扱い、労働を二倍にしたのです。迫害です。そのため民の多くは神に失望しました。
しかしその後、主は10種の災いをもたらすことで、ご自身の栄光を現されました。エジプトだけが被害に遭い、イスラエルは守られるようにされました。
エジプトにはあぶの群れが襲い、疫病が流行り、ひょうが降り、イナゴが作物を荒らし、真っ暗闇が襲いましたが、イスラエルが住んでいる地域は何の害もありませんでした。
そして最後に、エジプトのすべての長子を打って殺されましたが、イスラエルは助けられました。エジプトもイスラエルも、ただお一人の神がおられることをその身で学んだのです。

また、イエス様は迫害を受け、抵抗することなく殺されました。その3日後によみがえりの力が明らかにされて、神があがめられるためでした。
そして世界中にその御名が宣べ伝えられるようになっています。

新約聖書の使徒の働きや手紙には、最初から教会が迫害と困難の中にあることを伝えていますが、むしろその中で、主のみことばが伝えられ広がっていることを教えています。

ご存知かもしれませんが、2015年にイスラム国が人々を斬首する事件が多発しました。
エジプトのキリスト教であるコプト教徒の若者たちが、リビアの海岸で斬首された動画が流れました。それだけではなく、エジプト人のコプト教徒は多くの嫌がらせや迫害を受けました。
ある時、エジプトのアレキサンドリアという町にある教会で、イスラム国による自爆テロが起こりました。残された人々が、「イスラム国の人々を赦します、夫は天に行くことができたのです。」とテレビで答え、その番組の司会が言葉を失いました。
そしてこう言ったのです。「エジプトのコプト教徒は、鉄で出来ている! エジプトのキリスト者は数百年もの間、多くの虐殺と災難を耐えてきています。エジプトのキリスト者は、我が国を深く愛しています。我が国のため、全てを耐え忍んでいます。これだけ圧倒的な、偉大な赦しがあるでしょうか! もし敵が、これだけの大きな赦しを彼らに持っていることを知っているなら、信じることが出来ないでしょう。もし彼が私の父であれば、絶対にこんなことは言えません。この人たちはこんなにも赦しを持っているのです。それが彼らの信仰であり、宗教的確信なのです。」
この出来事で、エジプト中の人々や大勢のイスラム教徒の人々が驚愕し、神がおられることを証ししたのです。自爆テロで夫を失ったという悲しみを通して、神が大きな証を立ててくださったのです。


②あなたがたは、地の塩

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
マタイ5:13

イエス様は「あなたがたは」という言葉をかなり強く言っておられます。「あなたがたこそが、地の塩です」「あなたがたこそが、世の光です」と。
世界には、良い影響を与えるものがたくさんある中で、「いや、違います。あなたがたこそが地の塩、世の光です」と主は言われているのです。

「地」というのは、天の反対です。聖書では、天には神が住んでおられ、それに対して人や他の生き物が住んでいる地を対比させています。大昔は、天と地は調和がありました。エデンの園がその代表です。
しかし、最初の人アダムが罪を犯したとき、神は宣言されました。

また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
創世記3:17

すなわち地は、人の罪によってその腐敗が進んでいってしまったという言い方ができます。

その典型が、ノアの時代の地上での人々の姿でした。

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
創世記6:5-6

そのため洪水を通して神様は地を裁かれ、ノアの一家8人と選ばれた動物以外のすべての生き物を滅ぼされました。

そして黙示録を見れば、天からの火で、悪と不正に満ちた地上が裁かれている姿を見ます。ですから、地は堕落、腐敗して、天におられる神によって滅ぼされなければならない場所として描かれています。

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
Ⅱペテロ3:3-7

そして、それは私たちの霊的な生活でも同じです。ヤコブは、地上の知恵と上からの知恵を対比させています。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
ヤコブ3:14-17

このような地上に対して、イエス様は「あなたがたこそが塩なのだ」と言われているのです。

当時の塩は今よりずっと希少なものであり、高価なものでした。そして主に使われていたのは、「腐敗防止」のためでした。冷蔵庫がありませんので、肉は保存食にするために塩を使い、菌によって腐食が進行するのを遅くさせます。
ですからイエス様がここで語られているのは、「あなたがたこそが、地における腐敗を遅らせているのだ」ということなのです。

ここで大事なのは、「あなたがたは地の塩となります」とイエス様が言われなかったことです。「地の塩です」と断言されています。
人がイエスさまを自分の心に受け入れ、この方を主としてあがめるようになった時点で、その人に与えられた新しい心に御霊が働いておられます。その時すでに、腐敗して滅びゆく地に対し、それを遅くする役割を果たしているのです。自分で意図的に頑張らなくとも、そのようにされていると言ってよいのです。
クリスチャンがいると、それだけで煙たがられる時もありますが、「気になって仕方がない」という現象もしばしば起こります。そしてその中で、強烈に引き付けられる人々が起こり、人々の魂の中に霊的な渇きを呼び起こします。それで、主ご自身に引き寄せられる人々も出てくるのです。

聖書の中では、地の塩となっている神の人々の姿がたくさん出て来ます。

そして、キリスト教会が広がって行ったところでは、キリスト者の働きにより、その社会によって大切なもの、希望が与えられたことがたくさんあります。
例えば、ローマ社会は、堕胎は当たり前でした。むしろ奨励されていました。望まれない子どもは産んだ後にすぐに殺され、赤ん坊が捨てられました。エペソの遺跡には、そういったところが残っています。そこで、そのゴミ捨て場のようになっていたところで、拾いに来ていた人たちがいました。キリスト者たちです。
またローマで疫病が流行った時に、患者は神々から罰を受けているとみなされ、疫病の感染力もあって、みなが患者を避けていました。そこに看病しに行ったのはキリスト者です。自らも感染して死ぬかもしれないのに、それでも助けました。
そのようにして地の塩であり続け、世に対して、不法の力が働くのを抑えているのです。

世の終わりに、不法の者が現れると預言されています。世界に荒廃をもたらす人物が、悪魔の力を抱いて現れることを、パウロはこう書いています。

あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
Ⅱテサロニケ2:6-7

このようにして、キリスト者の存在が不法の人が現れるのを引き止める力となっているのです。


また、主は「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」とも言われました。
塩が塩気を無くすことは、私たちは想像できませんが、当時の塩は死海のそばから不純物が混じった形でとれました。それで塩を取っているつもりでも、不純物しかない塩も存在したのです。そうした塩は、もともとの用途に使うことができません。ですから、道路に舗装するだけの材料としかなりませんでした。それで、「人々に踏みつけられるだけ」とイエス様は云われます。

私たちは、自分たちに主の塩気があることに気づいていないことがあります。「むしろ、無いのではないか」と思う時のほうが多いです。
例えば親切にすることについて言えば、自分よりも親切な人たちはたくさんいます。心の病を持っている人たちに対して、教会はあたかも心理的カウンセリングや精神医学のほうに解答があるような気がします。社会問題についても、政治や社会活動のほうに解答があるような気がするのです。
そうすると、「自分たちの役割は一体何なのか」と思って、世にあるものに自分たちも調子を合わせることによって人々に近づこうとするのです。
そもそも不純物が混じっている私たちなのに、「福音こそが私たちを救う神の力だ」という唯一の塩気を取り除いてしまうという愚かなことをしてしまいます。実は福音にこそ、社会の最も複雑な問題、政治も経済も、教育もどんなものも解決できない問題を打破する力があるのです。私たちの取り得は、イエス様だけです。そしてイエス様がおられたら全て満たされます。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
コロサイ2:3

イエス様に結ばれていなければ、私たちは何の役にも立たなくなる喩えとして、イエス様はぶどうの木を挙げられました。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
ヨハネ15:5-6

枝はぶどうの実を結ばせることが目的です。切り離されてその枝だけになってしまったら、他に役に立つことがありません。せいぜい火のための燃料にしかなりません。
私たちはとかく、自分が何か実を結んでいるかのように錯覚してしまいますが、キリストから離れては何もないことを知っていなければなりません。枝が実を結ぶのではなく、木が枝を通して実を結ぶからです。


③あなたがたは、世界の光

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:14-16

暗闇は、神に反逆したサタンによって、悪が支配していることを示しています。

私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
Ⅰヨハネ5:19

それでゲヘナ、地獄に悪魔が投げ込まれた後の世界では、もはや暗闇がなくなるのです。

イエス様はヨハネによる福音書で、何度もご自身が暗闇の中の光であることを語られました。

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
ヨハネ8:12

また、ご自身が世から取り去られる時が来ることを思って、こう言われました。

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
ヨハネ9:4-5

そして、ご自分が光であるとして、光を信じなさいと勧めます。

イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」
ヨハネ12:35-36a

イエス様が光として闇の中に輝いておられるので、そこに来る者も、光の子どもになるのだということです。イエス様に付いてくる者はその光の中にいるので、自分自身が光になるということです。

私たちが光を生み出すのではありません。その光はイエス様からすでにいただいているのです。


光は、闇を闇として明らかにします。自分たちのしていることが光によって明らかにされて、それが悪であることを知らされるということです。

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
エペソ5:8-13

ですから、私たちが光の中を歩もうとすると反発が来るのです。暗闇のわざを見せてしまいます。隠れてやっていたものが露わにされるので、反発したり、反抗するのです。

しかし光の役割は、悪いことを悪いこととして明らかにするだけではありません。イエス様の光はまさに「あなたがたを裁くために来たのではない、救うために来たのだ」ということを知らせる光でもあるのです。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
ヨハネ3:17-21

イエス様のことが心に紹介されると、自分の悪い行いが明らかにされます。その時に、自らへりくだってその罪を認め、イエス様の十字架にある罪の赦しを求めるならば、主は罪のすべてを清めてくださいます。しかし、その悪を愛してそのまま行いたいと願うならば、光の方に来ようとしません。

そういうわけで、私たちは世の光として任命されていますが、ここでイエス様が強調されているのは、「隠さない」ということです。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイ5:14-16

「山の上にある町」ですが、ガリラヤ湖にはツファットという町があります。ガリラヤ地方では最も高いところに位置します。夜になると、湖の北側でツファットが光っているのがどこからでも分かります。
光があれば、山の上にある町は隠れることは出来ません。光が灯してあるということは、人々が分かるように照らすためなのです。

また、当時の家の灯りはろうそくでした。升はそれを消すときに使う道具です。「わざわざろうそくに火を点けるのは、升で消すためではないでしょう」とイエス様は例えています。
ろうそくに火を点けるのは光を隠すためではなく、光を輝かせるためです。
「がんばりなさい」というよりは、「すでにある光を隠さないでいなさい」ということです。

私たちがイエス様を信じるということは、それだけで光となってしまうということです。隠すことができません。
自らがキリスト者であることを人々に、決心して明かしていく必要があります。そこに聖霊が働いてくださり、神がその証言を強めてくださいます。

ここで大事なのは、目的です。塩や光として生きるのは、自分が何をしたということではなく、神があがめられるためです。
「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
自分のした良い行いなのですが、それは神から出ているので、人々は神をあがめるようになるのです。キリスト者が良い行いをする時、見ている人には神への飢え渇きが起こります。そして、神をあがめるようになるのです。神に栄光が帰されます。

そして最後に、人々に神をあがめるように影響を与えたら、そのことについての報いも光として与えられます。神が光であられるように、その光によって自分自身も輝く報いを受けます。

思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
ダニエル12:3

私たちへの褒美、報いはただ神様から来ます。
神様からの褒美を求めて、歩んでいきたいです。

【説教者:堺希望伝道師】

2023.05.07 聖日礼拝

「御霊に満たされる方法」

引用聖句

エペソ 5:18

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

説教要約

「御霊に満たされなさい。」これは神様の命令です。これは従いたい人は従って、従いたくない人は従わなくてもよいというものではありません。また神様はクリスチャンが従えないような命令はなさいません。クリスチャンならだれでも従うことが出来る命令です。次に「御霊に満たされるためにするべきこと」を書きます。


(1)自己吟味をすること
ガラテヤ 5:22,23
22. しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23. 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

この実が結んでいるかを吟味します。これは悪い所を探すのではなく、私が大腿骨を骨折してリハビリをした時、私は歩くとき足の膝を曲げて歩いているので、先生は足の膝を伸ばすことを徹底的に訓練してくれました。85年間の悪い癖を直す事は簡単ではありません。毎回注意されます。

私は退院するとき先生の声を録音して「毎日聴かなければならない」と言って笑われました。私は高等学校で数学を教えてきましたが、生徒が、「どこがわからないのかがわからない」のです。生徒の悪いところが解って初めて直せるのです。

「証しをする力があるか」「イエス様をあがめているか」を吟味します。


(2)9つの御霊の実で結んでいない実があれば悔い改めればよいのです。
ガラテヤ 5:22,23
24. しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
25. 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

Ⅰヨハネ 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

皆さん、出エジプト記で神様は律法を与えた後で、幕屋をお与えになりました。幕屋は何のために造られたと思いますか。全焼のいけにえや、罪の悔い改めのいけにえ、あのようにたくさんの羊を殺して、その血をささげるのです。あれは人間の罪を赦していただくためなのです。

すべての人間は罪人ですから、罪を赦していただかなければ神様の前に出ることはできません。新約においてはイエス・キリストが十字架で私たちの罪を赦すために血を流されました。ですから十字架で私の罪の身代わりとして死なれたイエス様を信じなければ神様の前に出ることはできないのです。

イエス様の十字架の前で、自分に気が付くすべての罪を悔い改めることは良いことなのです。私が一番悔い改めていることは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。いつも「主の御名をあがめます」と祈っています。

Ⅰヨハネ 1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。


(3)自分自身を完全にイエス様に委ねる。
詩篇 37:5
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

私が神学校の2年生の時、宣教師のバーゲット先生が、滝山教会に月に1度メッセージに来ていました。滝山教会は無牧だったのです。バーゲット先生は色々な教会から招かれるので忙しいのです。バーゲット先生は、バーゲット先生の代わりに「あなたが行ってメッセージをしなさい」というのです。私が行ってメッセージをしていると「滝山教会の牧師になってくれないか」と頼まれました。

私は名古屋の三菱電機で5年、高校の教師を5年勤めました。そして宣教師から伝道の方法だけ教えられて神学校へ行きました。私は、「物理のことはわかるけど人間がどのような者かがわからないのでとても無理です」と断りました。しかし「祈ってください」と言われて祈りました。祈りの中で

詩篇 37:5
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

があたえられました。「イエス様に信頼すればイエス様が牧会してくださる」と言われるのです。イエス様が牧会してくだされば何も問題はないのです。しかし、私がイエス様を信頼しきれないのです。そして1年以上経ちました。滝山教会の人から「滝山教会に何か問題がありますか」と尋ねられて滝山教会には何も問題はありません。「私がイエス様を信頼しきれないのです」と言って祈り続けました。卒業式が近ずいてきました。

これ以上待ってもらうことはできないので滝山教会の牧師になりました。私の為に十字架で私の罪の身代わりとして死んでくださったイエス様を信頼することも、こんなに難しいのです。

マルコ 10:13~15
13. さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14. イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15. まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

滝山教会の役員の奥さんが手術をするので、役員の家に行って「子供の面倒を見てくれ」というのです。私は行って子供と一緒に寝ました。目を覚ますと5歳の子供がいないのです。玄関に行ってみると、その子供は玄関でお母さんを待っているのです。「お母さんは帰って来るから一緒に寝よう」と言っても、その子は玄関で待っているのです。子供がお母さんを信頼する信頼には負けました。私も子供のようにイエス様を信頼できたらと思いました。


(4)聖霊に満たされることを求める。
ルカ 11:5~13
5. また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
6. 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
7. すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
8. あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
9. わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10. だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11. あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12. 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13. してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

Bという友達が旅の途中Aさんのところへ来ましたが、AさんはBさんに食べさせてあげるパンがなかったのです。AさんはCさんの所へ行き「君パンを3つ貸してくれ、友人が旅の途中で来たのだが、出してやるものがないのだ」と言ったとします。

Cさんは「面倒をかけないでくれ、もう戸締りもしてしまったし、子供達も寝てしまっているので、起きて何かを上げることはできない。Cさんは神様のことです。Aさんはクリスチャンです。Bさんは救われていない人のことです。

ルカ 11:13
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

Aさんが神様に御霊に満たされるように祈っています。

ルカ 11:8
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

「あくまで頼み続けるなら」滝山教会で滴礼は受けていたが全浸礼を受けていないご主人のために8年間祈っていた夫人がいました。しかしこのみ言葉から「あくまで頼み続けよう」と決心されました、そしてご主人が全浸礼を受けられました。あくまで頼み続ける必要があります。


(5)私はイエス様に喜ばれるためには、どうしたら良いかを、いつも祈っています。
そうしたら「御霊に満たして」くださいます。
「御名があがめられるように」と祈っていると不思議に神様が御霊に満たしてくださり、うれしくなります。


【説教:大木英雄牧師】

2023.04.30 聖日礼拝

「御霊の実について③」

引用聖句

ガラテヤ 5:22,23

22. しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23. 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

説教要約

先週の堺先生のメッセージは「義のために迫害されている者は幸いです。」でした。義とは神様と正しい関係ですから、「御名をあがめること」は神様と正しい関係ですから、悪魔の攻撃を受けて迫害されるのです。

神様に喜ばれようとすれば悪魔から攻撃を受けるのです。これは旧約ではダビデが「御名をあがめよう」とすればするほど、サウルから攻撃を受けたのです、私たちは今御霊の実について学んでいます。

御霊の実の(1)で愛、喜び、平安について学びました。

マタイ 22:39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』を守れば主の御名をあがめることになります。主の御名をあがめることを一番嫌うのは悪魔です。ですから悪魔はご夫婦を攻撃して、ご夫婦が駄目になったケースをたくさん見ています。いくら悪魔に攻撃されても、御名があがめられますように、と祈って悪魔に勝利しましょう。

(3)平安
私はいつも平安ですが、人間関係がこじれると平安がなくなります。そんな時でも、御名があがめられますようにと祈っていると平安が与えられます。


(7)信仰
御霊に満たされている人は、神の力を十分に信頼して歩むことが出来るのです。

ピリピ 4:19
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

教会では信仰という言葉を何百回も聞います。我が家でも「恵み」のご主人は大学を2つも出ています。聖書理解はものすごく深いのです。しかし信じる事は難しいと言っています。イエス様が神様だと信じることは簡単ですが、イエス様を信頼する事は難しいと言っていました。

マルコ 10:13~15
13. さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14. イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15. まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

日曜学校の子供は、ヨナがお魚に食べられてお魚のお腹の中で3日間生きていて3日目に陸地にはきだされた事を、簡単に信じるのです。私などは「お魚なお腹の中で3日間も生きて居られるのか」と考えて信じられないのです。

別の話になりますが、日本人は聖書を神様の言葉と信じていません。相撲を取るときは同じ土俵のうえでないと相撲になりません。ですから私はまず聖書が神の言葉であることを証明します。女性であれば神様が人間を造られた証拠を示します。

又、太陽系の模型を通して、模型でも偶然には出来ない。まして本物の太陽系が偶然に出来るはずがない。清瀬のリハビリ病院で私が説明したら、模型は偶然に出来ないかもしれないが本物は偶然に出来たと言い張るのです。私は女性と議論しても、その女性は、「本物は偶然に出来た」と言い張るのです。私は唖然としてそれ以上議論をしませんでした。

日本は学校で進化論を教えられているので、100人中99人まで進化論を信じているのです。私は「進化論の致命的な間違い」というトラクトを作りましたので、それを多くの人に読んでもらおうと思います。私の勉強部屋など1週間もすれば、本とかボールペンとかナイフとかハサミで、散乱します。

しかし進化論の教えは「整理整頓されていく」という教えです。無茶苦茶な教えを悪魔に騙されて信じているのです。大学の生物の先生は全部進化論を信じています。創造論を教えると首になるのです。

ローマ 10:17
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

数学の問題を解ける人と解けない人の違いは、公式を信頼しているかどうかです。Aの公式でだめならBの公式、Bの公式でだめならCの公式、Cの公式でだめならD公式という風にやれば解けるのです。滝山教会である小学生が 友達の救いのために祈っていました。1年ほど祈って「神様はもう聞いてくださっていると思うので祈るのを止める」と言うのです。私は驚きました。その友達はしばらくして救われました。

マルコ 10:13~16
13. さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14. イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15. まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
16. そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。


(8)柔和
生まれながらの人間は、高慢、おうへい、利己的、自己中心的な性質を帯びています。しかし、御霊に満たされるとき、謙遜、穏やか、従順になり、他の人から信頼されやすい人間になります。世界で最も柔和の模範はイエス様です。

イエス様は万物の創造者であられたのに、ご自分を卑しくし、仕える者の姿を取り、十字架でご自分の命を犠牲にされました。人間を創造されたイエス様が、ご自分が創造した人間から、嘲笑され、ののしられ、ツバキをかけられている姿を見るのです。そのような状態にされてもイエス様はののしり返されないのです。

マタイ 26:47~54
47. イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大勢の群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
48. イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
49. それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
50. イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
51. すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
52. そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
53. それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
54. だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

1軍団=6000人、12軍団=7万2000人

イザヤ書 53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(父なる神)は、私たちのすべての咎(罪)を彼(キリスト)に負わせた。

イエス様はそのような力をお持ちなのに、そのような力をお用いにならずに、イエス様は柔和であられた。それは私たち罪びとが永遠の命をいただくためです。イエス様は御自身のことを、

マタイ 11:29
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

このような柔和さは私たち罪人にはありません。これは御霊に満たされなければできません。


(9)自制
自制は激怒、怒り、恐怖、嫉妬などのクリスチャンの感情的な爆発の問題を解決する、聖霊に満たされた人は、信頼される人となるのです。どんなクリスチャンでも規則正しくデボーションをしなければ、聖霊に満たされることはできません。これらの実が自分にないからと言ってあきらめる必要はありません。

Ⅰヨハネ 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

悔い改めればよいのです。


主の御名をあがめる

創世記 1:26&27
26. そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
27. 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

神様は霊的な存在なので人間も霊的な存在として創造されたのです。

創世記 2:15~17
15. 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16. 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17. しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

神様は人間をエデンの園に置き「神の王国を造ろうとされました」
神の王国の王様=イエス様
イエス様の権威

マタイ 28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

ラージャス先生はいつも、イエス様は天においても地においても、一切の権威を持っていると言っていましたが、これは日本人がイエス様の権威を認めなくても、神様が神の王国を造られたとき、神様はイエス様に一切の権威を与えられたのです。私たちはイエス様の権威を信じましょう、日本は仏教王国ですが、仏教の権威よりもイエス様の権威の方が上なのです。

神の王国の市民はクリスチャンです。神様がこんなに素晴らしく神の王国を造ってくださったのにアダムとエバは悪魔の誘惑に負けてしまったのです。アダムとエバは善悪の知識の木からとって食べてしまったのです。

創世記 3:5&6
5. あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6. そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

アダムとエバは善悪の知識の実を食べたので、悪魔の家族になってしまったのです。

ローマ 5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。

アダムは全人類の代表なのでアダムが罪を犯したので、全人類は悪魔の家族になってしまったのです。

ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は天と地を創造された神様
その一人子=イエス様
「お与えになった」という意味
人間は罪人です

マルコ 7:22
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、

姦淫=男女が性的な罪を犯す。

貪欲=人間はこれで満足ということがない、
欺き=「うそ」子供に嘘のつき方を教えるお母さんはいません、しかし子供はお母さんをだますような嘘をつきます。

「そしり」=人の陰口を言う、その人の前ではその人の悪口を言う人はいません。しかしその人のいないところでその人の悪口を言います。

高ぶり=人間は神様に創造された。神様は人間に必要なものをすべて創造された、太陽、空気、水、食べ物、しかし人間は神様を信じなくともよいという、これほどひどい罪はありません。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

人間が死ぬことは全ての人が認めています。しかし死後裁きがある事は、一度死んで蘇った人でなければ誰も言うことはできません、しかし一度死んで蘇ったイエスさまだけが言うことが出来ます。

使徒 9:1~9
1. さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2. ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3. ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4. 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5. 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6. 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7. 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8. サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9. 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

サウロは律法を守ることで天国へ行けると固く信じていた人です。しかしクリスチャンはキリストは死人の中から三日目に蘇ったと信じるだけで天国へ行けると信じている人たちです。そしてクリスチャンの数が爆発的に増えてきたのです。

サウロはそのような間違った教えを信じているクリスチャンを皆殺しにすべきだと考えて、大祭司の所へ行って、キリストが三日目に死人の中から蘇ったと信じているクリスチャンを皆殺しにしてもよいという、任命書をもらって来たのです。

そしてクリスチャンを捕まえていました、ところがダマスコに来た時、天からまばゆい光の照らされたのです。そして死人の中から三日目に蘇ったイエス様から「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」という声を聴いた。

サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった「わたしはあなたが迫害しているイエスである」私たちにはサウロの驚きを理解することはできません。サウロはイエス様が死人の中から蘇ったと信じているクリスチャンを殺していたのです。

ところがサウロは死人の中から三日目に蘇ったイエス様に会ったのです。サウロにイエス様が死人の中から三日目に蘇った事伝道すればその場で殺されます。サウロに伝道できる人は一人もいません。伝道すればその場で捕まえられて殺されるのです。

死人の中から三日目に蘇られたイエス様ご自身が伝道されたのです。サウロはその場で目が見えなくなり三日間何も食べなかった。このことからサウロがいかに驚いたかが想像することが出来ます。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

これは三日目に死人の中から蘇られたイエス様の言葉です。イエス様が死人の中から三日目に蘇られたことを信じない人は死後裁かれるのです。

ローマ 5:8
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は十字架の上で私たち罪びとが受ける神の裁きの身代わりとしてご自分の御子キリストをお与えになられたのです。神の王国で最高の権威を持ち、私たちの身代わりとして十字架せ死なれたイエス様の御名をあがめましょう。

【説教:大木英雄牧師

2023.04.23 聖日礼拝

「天の御国の生き方⑨」-義のために迫害されている者-

引用聖句

マタイ5:10~12

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

説教要約

①義

マタイ5:10, 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

これまで、神様から見て幸いである人の特徴を見てきました。
その最後の特徴は、「義のために迫害されている人」と述べられています。

義とは、6節の時にも取り上げたように、「神様との正しい関係」と言い換えることができるでしょう。

マタイ5:6, 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

つまり、「神様との関係のために迫害されている人は幸いだ」とイエス様は言われました。

義。神様との正しい関係とは何でしょうか。

それを一言ですべて言い表すことは難しいですが、「いつも神様の前にへりくだること」と言えます。聖書の中では「神を恐れる」と表現されています。これは今日のメッセージのテーマでもあります。
なぜ、神を恐れることが大事なのでしょうか。

第一に、神様は私たちの造り主だからです。

創世記2:7, 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

詩篇137:13, それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
詩篇137:14, 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
詩篇137:15, 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
詩篇137:16, あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

私たちは誰一人、偶然生まれてきたのではありません。この世界をお造りになられた神様が、愛とご計画をもって生まれさせたのです。
今日まで私たちが生きていることは、私たちには計り知れない神様のご計画によるのです。


そして第二に、神様から離れ去った者のために、神様ご自身がへりくだられて、いのちまでも犠牲にしてくださったからです。

ローマ5:7, 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
ローマ5:8, しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ5:9, ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ローマ5:10, もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
ローマ5:11, そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

自分を犠牲にできるのは、相手が大切だからです。無駄なものにお金を払いたいとは思いません。まして、自分のいのちを払いたいと思えるものが、この世界にどれほどあるでしょうか。

驚くことに、キリストは、敵である私たちのためにいのちを捨ててくださったのです。


「神を恐れる」とは、文字通り恐怖するという意味があります。どうして愛の神様に恐怖しなければならないのか、と思う方もおられるかもしれません。

イザヤ6:1, ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
イザヤ6:2, セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
イザヤ6:3, 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
イザヤ6:4, その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
イザヤ6:5, そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

これは預言者 イザヤが、幻の中で神様と対面したときのことです。
神様は完全に聖いお方で、一切の罪がありません。あまりに聖いので、人は自分の罪深さが露わにされてしまいます。
自分の罪深さに直面させられることは、この世の何ものよりも恐ろしいことです。
神は聖なる方なので、恐ろしい方なのです。
しかし、そのお方がいのちを捨てて私たちを愛されました。私たちは受けた愛ゆえにへりくだるのです。

ピリピ2:6, キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ピリピ2:7, ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
ピリピ2:8, 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ2:9, それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
ピリピ2:10, それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
ピリピ2:11, すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
ピリピ2:12, そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。


②迫害

マタイ5:10, 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
マタイ5:11, わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

見てきたように、私たちは生きることのすべてで神様を頼り、神様を真ん中に置く必要があります。自分よりも真ん中に置くのです。
それが神を恐れるということです。

もし神を恐れて生きるなら、その人は迫害に遭うと聖書は述べます。

Ⅱテモテ3:12, 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

また、今日の箇所の12節では、旧約聖書の預言者たちもそうだったと言われています。

どうして神様との関係を深めていくと迫害に遭うのでしょうか。
それは、クリスチャンはイエス様を主であり神であると信じていますが、キリストを信じない人は別の神を心に持っているからだと聖書は言います。それは自分自身という神です。

創世記3:1, さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
創世記3:2, 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
創世記3:3, しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
創世記3:4, そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
創世記3:5, あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
創世記3:6, そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

度々引用していますが、罪とはなにか、この箇所が一番良く教えています。

神が言われたこと、命令されたことよりも、自分の欲を優先する。これが自分が神であるという証拠なのです。

アダムとエバがこの罪を最初に犯しました。しかし、ここで教えられているのは、どんな人も同じ罪を犯しているということなのです。

しかし、キリストを信じる人はもはや自分が神ではないので、迫害を受けるのです。

イエス様の時代でも、バプテスマのヨハネはこのようにして殺されました。

マタイ14:1, そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
マタイ14:2, 侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
マタイ14:3, 実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。
マタイ14:4, それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。

ヘロデ王は弟の妻が欲しくなり、王の権威によって自分のものにしましたが、バプテスマのヨハネは神を恐れていたので「それは不法です」と王に言い張ったのです。
そのため怒りを買い、牢屋に入れられ、策略によって殺されました。

また、イエス様の時代には、「 ローマ皇帝が救い主であり、最高の神である」と教えられていました。それで、イエス様を唯一の救い主とするクリスチャンたちは激しい迫害を受けました。


しかし、聖書の時代ではあからさまな迫害がありますが、現代の日本では迫害なんてないのではないか、と思われるかもしれません。
今の日本は信教の自由、また基本的人権が保証されています。
何を信じても許されているし、攻撃すれば裁判にかけられるので守られています。
時代が進歩したので、人が良くなったということでしょうか。

聖書は、アダムとエバの記事にあったように、いつまでも人の心は変わらないと述べます。

エレミヤ17:9, 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

現代は、ポスト・モダンの時代などと言われます。
誰が何を信じていようと自由。色々な真理、価値観があっていいじゃないかという時代です。
つまり、私の神とあなたの神、それぞれあっていいじゃないか、という傾向です。
表面的には、自由になったようですが、まことの神を無視して生きることは、アダムとエバの時代から何も変わりません。

このような世界で、

申命記6:4b, 主は私たちの神。主はただひとりである。
申命記6:5, 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

このような信仰を宣べ伝えることは、嫌がられます。
まさに先日ある人に、「宣教することは人の自由を奪うことだ」と非難されました。クリスチャンが言葉でも生き方でも主を証することは、表立って暴力を振るわれることはないかもしれませんが、孤独になったり嫌がらせをされたりする、嫌われる生き方なのでしょう。

しかし、キリストを証する生き方が嫌われるのは、時代遅れの頭がおかしい生き方だからではなく、中心にいる神が違うからだということを覚えておく必要があります。

私たちは、自分が誰をどのように信じているのか、ありのまま証していけば良いのです。


③人を恐れず、神を恐れる

マタイ5:12, 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

私たちが見つめ直す必要があるのは、自分が誰を恐れているのか、ということです。
人の目が恐ければ、人の目にどう映るかを気にする生き方をしてしまいます。もし神を恐れているなら、神の目にどう映るかを気にして生きていきます。
それは行いではなく心の問題なので、私たちの努力で変化できることでも、誰かに無理強いされることでもありません。

ただ、正直に、自分が何を中心に生きているかを問う必要があります。

この世界と人をお造りになった唯一の神はこう言われます。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」
この天とは、死んだ後という意味ではなく、いつでも「神様の前で覚えられて、報いを受ける」という意味です。

神の前には、クリスチャンとして生きたために受けた「ののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせ」られることは間違いなく覚えられるのです。
だから、悲しんだり落胆するのではなく、むしろとんだりはねたりして喜びおどりなさいと言われています。この世の感覚とは、真逆です。

私たちは、誰の言葉を信じ、何を真ん中に置いて生きているでしょうか。そして、これから誰を真ん中に置いて、恐れ、生きていきたいですか。


【説教者:堺希望伝道師】

2023.04.16 聖日礼拝

「御霊の実について②」

引用聖句

ガラテヤ5:22,23

22. しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23. 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

説教要約

「御霊の実について②」で愛、喜び、平安について学びました。

マタイ 22:39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これ一つ守る事でも容易なことではありません。私はいつも、「御名があがめられますように」と祈っています。

私たちは今西団地に住んでいます。愛ねーさん、裕紀、歩美も西団地に住んでいます。今、引越しをしていますので、子供達も夕食を食べに来ます。家内が夕食を作ります。洗い物も家内がします。その日は洗い物を私が洗いました。私は自分でも驚きました。「御名があがめられますように」と祈っていると自然にやれたのです。


(3)平安
私はいつも平安ですが、人間関係がこじれると平安が無くなります。そんな時でも、「御名があがめられますように」と祈っていると平安が与えられます。


(4)寛容(長く苦しむこと)
マタイ 26:63~67,
63. しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
64. イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
65. すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
66. どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。
67. そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、

イエス様を侮辱した。イエス様は「あなたは神の子キリストなのか」と尋ねられて、イエス様は「そうです」と答えられただけです。その結果、イエス様は顔につばきをかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれた。

私たちはイエス様のような、苦しみを受けたことはありません。私たちが苦しみを受けた時、イエス様の事を思えば、私たちの苦しみなどたいしたことではありません。イエス様は御霊に満たされていたのです。「御名をあがめます。」


(5)やさしさ
思慮深い、礼儀正しい、上品な、思いやりのある、物分かりの良い、親切な行為であって、やさしい心から発しているのです。

しかし今住んでいる私たちの世界は、あまりにも忙しくて、やさしい心で接していると社会から取り残されてしまうのです。私たちは毎日忙しく働いているので訓練を受けたクリスチャンでも、「幼い子供たちの邪魔が入ったりすると、イライラしてしまうのです。」

マルコ 10:13~16
13. さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14. イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15. まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
16. そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

イエス様はどんなに忙しい中でも子供たちに対する優しい心を持っておられた。私たちは御霊に満たされなければ優しい心を持つことはできません。

マタイ 18:21~30
21. そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22. イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
23. このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
24. 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
25. しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
26. それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
27. しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
28. ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
29. 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
30. しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げられた。


1万タラント=17万年分のお給料、
100年分のお給料を赦していただいてもすごいことです。17万年分のお給料は「十字架で私たちが受ける神の裁きを身代わりとして受けてくださったイエス様の命の事」を言っておられるのです。

イエス様のやさしさはご自分の命を犠牲にされたのです。これは御霊に満たされなければ出来るものではありません。御名をあがめます。


(6)善意
「自己とその所有物を惜しみなく提供すること」

使徒 20:35
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

人間は生まれつきこの上なく自己中心です。人間は御霊に満たされなければ、「自己とその所有物を惜しみなく提供すること」はできません。

人間は自分自身の事より、他の人のために何かをすることに関心を持つべきである。人間は生まれながらに自己中心的で思いやりのない傾向を持っている。他人のために何かをするということは、人間を自己中心的な考えから引き揚げ、治療しなければなりません。

人間は親切な行為を通して他の人に喜びをもたらす代わりに、御霊の働きを抑圧し、落胆と憂鬱のぬかるみの中へ、ますます深みにはまり込んでしまうのである。

家内は自分の事より他の人のことを優先させます、私は他の人の事より自分のことを優先させます、私は御霊に満たされるように祈のらなければなりません。御名があがめられますように。

「主の御名をあがめる」

創世記 1:26~27
26. そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
27. 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

神様は、「霊的な存在」なので、人間も「霊的な存在」として創造されたのです。

創世記 2:15~17
15. 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16. 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17. しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

神様は人間をエデンの園に置き「神の王国を造ろうとされました」
神の王国の王様=イエス様
イエス様の権威

マタイ 28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

ラージャス先生はいつも、「イエス様は天においても地においても、一切の権威を持っている」と言っていましたが、これは日本人がイエス様の権威を認めなくても、神様が神の王国を造られたとき、神様はイエス様に一切の権威を与えられたのです。

私たちはイエス様の権威を信じましょう。日本は仏教王国ですが、仏教の権威よりもイエス様の権威の方が上なのです。神の王国の市民はクリスチャンです。

神様がこんなに素晴らしく神の王国を造ってくださったのにアダムとエバは悪魔の誘惑に負けてしまったのです。アダムとエバは善悪の知識の木からとって食べてしまったのです。

創世記 3:5~6
5. あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6. そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

アダムとエバは善悪の知識の実を食べたので、悪魔の家族になってしまったのです。

ローマ 5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。

アダムは全人類の代表なのでアダムが罪を犯したので、全人類は悪魔の家族になってしまったのです。

ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は天と地を創造された神様
その一人子=イエス様
「お与えになった」という意味
人間は罪びとで会う

マルコ 7:22
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、

姦淫=男女が性的な罪を犯す。
貪欲=人間はこれで満足ということがない。
欺き=「うそ」子供の嘘のつき方を教えるお母さんはいません、しかし子供はお母さんをだますような嘘をつきます。 

「そしり」=人の陰口を言う。その人の前ではその人の悪口を言う人はいません。しかし、その人のいないところでその人の悪口を言います。

高ぶり=人間は神様に創造された。神様は人間に必要なものをすべて創造された。太陽、空気、水、食べ物、しかし「人間は神様を信じなくともよい」という、これが最高の罪です。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

人間が死ぬことは全ての人が認めています。しかし死後、裁きがある事は、一度死んで蘇った人でなけでば誰も言うことはできません。しかし一度死んで蘇ったイエスさまだけが言うことが出来ます。

使徒 9:1~9
1. さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2. ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3. ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4. 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5. 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6. 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7. 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8. サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9. 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

サウロは、律法を守ることで天国へ行けると固く信じていた人です。しかしクリスチャンは、「キリストが、死人の中から三日目に蘇ったと信じるだけで天国へ行けると信じている人たち」です。そしてクリスチャンの数が爆発的に増えてきたのです。

サウロはそのような間違った教えを信じているクリスチャンを皆殺しにすべきだと考えて、大祭司の所へ行って、「キリストが三日目に死人の中から蘇ったと信じているクリスチャンを皆殺しにしてもよい」という任命書をもらって来たのです。

そしてクリスチャンを捕まえていました、ところがダマスコに来た時、天からまばゆい光の照らされたのです。そして死人の中から三日目に蘇ったイエス様から「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」という声を聴いた。

サウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」私たちにはサウロの驚きを理解することはできません。サウロはイエス様が死人の中から蘇ったと信じているクリスチャンを殺していたのです。ところがサウロは死人の中から三日目に蘇ったイエス様に会ったのです。

サウロにイエス様が死人の中から三日目に蘇った事を伝道すれば、その場で捕まえられて殺されるのです。死人の中から三日目に蘇られたイエス様ご自身が伝道されたのです。サウロはその場で目が見えなくなり三日間何も食べなかった。このことからサウロがいかに驚いたかが想像することが出来ます。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

これは三日目に死人の中から蘇られたイエス様の言葉です。イエス様が死人の中から三日目に蘇られたことを信じない人は死後、裁かれるのです。

ローマ 5:8
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は十字架の上で私たち罪びとが受ける神の裁きの身代わりとしてご自分の御子キリストをお与えになられたのです。

神の王国で最高の権威を持ち、私たちの身代わりとして十字架せ死なれたイエス様の御名をあがめましょう。

【説教:大木英雄牧師】

2023.04.09 聖日礼拝

「天の御国の生き方⑧」平和をつくる者

引用聖句

マタイ5:3~10

マタイ5:3, 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
マタイ5:4, 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
マタイ5:5, 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
マタイ5:6, 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
マタイ5:8, 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
マタイ5:9, 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
マタイ5:10, 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

説教要約


平和を望んでいない人はいないと思います。

平和は安全、安定と言い換えることができるかもしれません。
食べ物があるから安全、暴力がないから安全。からだも心も守られていると安心します。
また、他人との間にいさかいがなければ、心が穏やかに過ごせることと思います。

このような平和は、私も無意識にいつも欲している平和です。
しかし、ここで気づくことは、これらの平和は「自分が安全である」ということです。
自分が守られ、自分が被害に遭わず、毎日を穏やかに暮らせることを、おそらく多くの人は「平和」と言います。

しかし、これまでの「幸いな人」がそうであったように、イエス様の言われた特徴はイエス様と照らし合わせなければ本当のところが見えません。

イエス様が言われたのは、神の平和だからです。


②イエス様の平和

聖書が「平和」というとき、その反対には「敵意」があります。敵意があるから、平和が必要なのです。

イエス・キリストはただの人ではありません。目に見えない、無限の存在である神様が人間と同じからだを纏って来て下さった神の子なのです。
イエス様がこの世に来てくださったのは、神と私たちの間に平和をもたらすためでした。

エペソ2:1, あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
エペソ2:2, そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
エペソ2:3, 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

神はこの世界と人間をお造りになられましたが、その神様と一人ひとりの間には「敵意」が存在しているのです。
これは、誰一人例外はありません。

先週の大木先生のメッセージにも出てきましたが、人は本来神様の栄光を反映する者として造られましたが、自分から神様とともに生きることをやめました。
神様の栄光ではなく、自分自身の栄光や利益を求めて、自分が誉めたたえられる生き方を選んだのです。

私たちは皆、神様に逆らい、神様の栄誉を傷つけて「敵対」する存在なのです。
そのため、神様はすべての人に対して「怒り」を燃やしておられます。神に逆らって生きているのですから、最後にはさばきとして永遠の地獄へ行かされるのです。これが、昔も今も、神様から見た人の姿です。


しかし神様は、私たちの生き方に怒っておられたと同時に、私たちを愛しておられました。
自分勝手な生き方しかできない私たちを、かわいそうに想っておられたのです。

神様が取られた手段は、ご自分がすべての損を負って、私たちを赦すということでした。
それが、イエス様が十字架にかかってくださった意味です。

神様の視点に立ってみてください。
自分に損害や嫌な思いをさせてきた人がいるとします。つまり平和を壊した人がいるとします。
その人を心からあわれんで、赦し、自分から平和をもう一度持つために近づいていくことができますか。

キリストは、自分から敵である私たちのところへ近づいてくださり、いのちを捨ててくださったのです。

エペソ2:14, キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
エペソ2:15, ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
エペソ2:16, また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

「二つのものを一つにし」たと何度も出てきます。平和がない相手とは、相手と私、二人の存在です。しかしイエス様はご自分の犠牲によって、二つのものを一つにされたのです。

それはまず、神様と私たちのことです。
人は神様を一方的に裏切り、攻撃した「敵」です。しかしイエス様は、敵のためにいのちを捨ててくださったので、その犠牲が自分のためであったと信じる人に神様との平和を確実にお与えになることができます。
神との平和は、永遠のいのちです。

そして神様との平和を基に、クリスチャン同士の平和をもたらされました。
自分がキリストの平和を知っており、相手もキリストの平和を知っているので、互いの間に平和が生まれるのです。

私たちは誰一人同じ人間はおらず、完全に分かり合える人はいません。
しかし、一番深くにあるものによって一つになることができるのです。それは、「私たちは、キリストの平和、愛を知っている」ということです。
その集まりを、聖書は教会と呼びます。

私自身を省みると、私はあまり人と関わるのが得意ではありません。理由は、心の底に恐れを抱えているからです。
表面的に平和を取り繕うのはできます。笑うこともできます。しかし、一番欲しているのは、心の奥底での交流です。
それをキリストはいのち懸けで私に与えてくださいましたが、どこかで信じきれていない部分があるのです。
だから、人のことも正しく信じきれないのです。


③平和をつくる

マタイ5:9, 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

多くの人の考える「平和」と、神様の言われる「平和」の違いを見てきました。

人の思う平和は、自分の安全や自分の快適さです。
しかしイエス様が実践された平和はその逆で、ご自分を危険にさらす道でした。

一方的に損害をかけてきた相手のもとへ「自分から」近寄りました。
それは、人を愛しておられたからです。滅びに値すると知っておられたのに、かわいそうに想ってくださったのです。

平和を「つくる」とは、願うだけでなく、「自分からつくりに行く」という意味です。
すなわち、イエス様がそうされたように、自分の安全をおびやかす相手の元へ自分から近づくということです。
人間的に考えれば、得をすることは一つもありません。
精神的にストレスになるし、さらに傷つくかもしれません。

ではどうして「平和をつくる者は幸い」なのですか。
それは私たちが味わった、イエス様が下さった平和を、その相手とも持ち、味わうためです。
その相手を、イエス様のように愛するためです。

その時私たちは、「神の子ども」として天の神様に喜ばれます。

【説教者:堺希望伝道師】

2023.04.02 聖日礼拝

「御霊の実について①」

引用聖句

ガラテヤ5:22,23

22. しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23. 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

説教要約

(1) 愛について
私は私より家内の方が愛のある人だと思っています。「あみ」と裕紀が高校を卒業したので5万円ずつ上げました、家内の貯金はあと30万円もないのです。もちろん私が家内に10万円渡しましたが、しかしここで言われている愛は

マタイ 22:37
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

ここで主を愛するとは

Ⅰヨハネ 5:3
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

マタイ 22:39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

私は思考型で、家内は感情型です。考え方の違う人を愛することは、そんなに簡単なことではありません。これは聖霊に満たされなければ出来ません。

ヨハネ 13:34、35
34. あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35. もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

9つの御霊の実について自己吟味して、愛について自己吟味して、自分に愛が足りないなと思えば悔い改めればよいのです。

Ⅰヨハネ 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

そして主の御名をあがめるために「主の御名をあがめさせてください」と祈れば良いのです。主の御名をあがめることがクリスチャンの目的ですから、「主の御名をあがめさせてください」と祈っていれば不思議にうまく行きます。


(2) 喜び
パウロは牢屋の中から手紙を書いています。

ピリピ 4:4
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

パウロがそう言えたのはパウロが聖霊に満たされていたからです。
パウロはまた

ピリピ 4:11
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

どんな人であれ牢屋の中で喜びに満ち足りることは聖霊に満たされなければできません。
使徒16章で悪霊につかれた女の人が

使徒 16:16~25
16. 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
17. 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
18. 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
19. 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
20. そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
21. ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
22. 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
23. 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
24. この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
25. 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

パウロは何にも悪いことをしていないのに牢屋に入れられ足に足かせをかけられていました。このような状態で賛美をしています。しかも囚人たちは聞き入っていた。これは聖霊に満たされなければで出来るものではありません。

私は清瀬リハビリー病院に3カ月入院していましたが、2カ月は車椅子、1か月は手押し車、3度の食事は出ますが、おやつはゼロ。おやつを食べないのでどんな食事でもおいしいのです。そして私は創世記からガラテヤ人への手紙まで読みました。

1日3回のリハビリーですが、柔軟体操です。手術した方の足の筋肉が固まっているので、柔軟体操をするのが痛いのです。手押し車になってからは、毎日1000メートルは歩きました。それでも毎日聖書を読んでいるので喜びはありました。

しかしパウロとは比べものになりません。「自分には喜びがあるか」を自己吟味すればよいのです。どんな状況でも喜んでいることが主の御心ですから、喜びがなければ悔い改めればよいのです。どんな状況でも喜ぶことが主の御名をあがめることですから、「主の御名をあがめるようにしてください」と祈れば良いのです。


(3) 平安
マルコ 4:35~41
35. さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
36. そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
37. すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
38. ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
39. イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40. イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
41. 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

ガラテヤ 5:16~20
16. 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17. 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
18. 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

現在の問題は、ほとんど肉の欲です。不品行とか、敵意、争い、です。これは平安をなくします。こころに平安がないときどうすればよいのか。

ピリピ 4:6&7
6. 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7. そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

平安がなければ悔い改めればよいのです。そして神様の御心は主をあがめることですから、私の罪の身代わりとして神の御子イエス様を犠牲にされた神様の御名があがめられるように祈れば良いのです。


「主の御名をあがめる」
創世記 1:26&27
26. そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
27. 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

神様は霊的な存在なので人間も霊的な存在として創造されたのです。

創世記 2:15~17
15. 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16. 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17. しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

神様は、人間をエデンの園に置き主の御名をあがめる者として創造された。しかし悪魔の誘惑により、善悪の知識の木からとって食べてしまったのです。

創世記 3:5&6
5. あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6. そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

アダムとエバは善悪の知識の実を食べたので、悪魔の家族になってしまったのです。

ローマ 5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。

アダムは全人類の代表なのでアダムが罪を犯したので、全人類は悪魔の家族になってしまったのです。

ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は天と地を創造された神様
その一人子=イエス様
「お与えになった」という意味
人間は罪人です。

マルコ 7:22
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、

姦淫=男女が性的な罪を犯す事。
貪欲=人間はこれで満足ということがない。
欺き=「うそ」子供の嘘のつき方を教えるお母さんはいません、しかし子供はお母さんをだますような嘘をつきます。

「そしり」=人の陰口を言う、その人の前ではその人の悪口を言う人はいません、しかしその人のいないところでその人の悪口を言います。

高ぶり=人間は神様に創造された。神様は人間に必要な物をすべて創造された、太陽、空気、水、食べ物、しかし人間は神様を信じなくともよいという、これが最高の罪です。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

人間が死ぬことは全ての人が認めています。しかし死後、神の裁きがある事は、一度死んで蘇った人でなけでば誰も言うことはできません。しかし一度死んで蘇ったイエスさまだけが言うことが出来ます。

使徒 9:1~9
1. さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2. ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3. ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4. 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5. 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6. 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7. 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8. サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9. 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。


サウロは律法を真面目に守っていたパリサイ人です。サウロは律法を守れば天国へ行けると考えていました。しかしクリスチャンはイエス様が三日目に死人の中から蘇ったと信じれば天国へ行けると信じている人たちです。クリスチャンの数が爆発的に増えてきたのです。

サウロはこのままだと真面目に律法を守る人がいなくなると考え、イエス様が三日目に蘇ったことを信じる人を皆殺しにしようと考えたのです。サウロは大祭司の所へ行き、クリスチャンを皆殺しにする任命書をもらって来たのです。そしてダマスコまで来た時、天からまばゆい光が彼らをめぐり照らした。サウロは地に倒れた時、

「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」という声を聴いた。サウロが「主よあなたはどなたですか」というと、お答えがあった「わたしはあなたが迫害しているイエスである」私たちにはサウロの驚きは想像することが出来ません。

サウロはイエス様が死人の中から蘇ったと信じているクリスチャンを殺していたのです。ところがサウロは死人の中から三日目に蘇ったイエス様に会ったのです。サウロにイエス様が死人の中から三日目に蘇ったことを伝道できる人は一人もいません。伝道すればその場で捕まえられて殺されるのです。

死人の中から三日目に蘇られたイエス様ご自身が伝道されたのです。サウロはその場で目が見えなくなり三日間何も食べなかった。このことからサウロがいかに驚いたかを想像することが出来ます。

ヘブル 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

これは三日目に死人の中から蘇られたイエス様の言葉です。イエス様が死人の中から三日目に蘇られたことを信じない人は死後裁かれるのです。

ローマ 5:8
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様は十字架の上で私たち罪人が受ける神の裁きの身代わりとしてご自分の御子キリストを与えてになられたのです。私たちはいくら主の御名をあがめてもあがめすぎることはありません。

ヨハネ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

【説教:大木英雄牧師】

2023.03.26 聖日礼拝

「天の御国の生き方⑦」 心のきよい者

引用聖句

Ⅰコリント6:19&20
19. あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20. あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

説教要約


これまで、山上の説教の「幸いな人」を追ってきました。
今日は8つの内6つ目、「心のきよい者」について見ていきたいと思います。

今日の約束は、「神を見る」という約束です。これは、面と向かって神様を見て、神様と親しい関係を持つということです。

皆様は、神様を見たことがありますか。
イエス様は「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださいました。また、イエス様を信じた人には御霊がいつも心に宿っていることを知っておられるかと思います。

しかし、実際にこの目では神様を見ることはできません。
もし、いつも自分の隣や目の前にイエス様がおられることが目に見えたなら、どんなに励ましとなり楽しいことだろうかと思うのです。イエス様が身近におられることが分かりやすいからです。

ところが、今日の約束はまさにそのような、「神を見る」すなわち「神様を身近に感じて生きられる」という約束なのです。


②心のきよい者
「きよい人」と聞いて、どのようなイメージを持ちますか。

なぜ「心の」きよい者と言われているかと言えば、表面的にきよい人たちがいたからです。
当時では、パリサイ人や律法学者と呼ばれた人々がその代表として挙げられています。

マタイ23:23, わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
マタイ23:24, 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。

マタイ23:27, わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
マタイ23:28, そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

パリサイ人は聖書を守ることを人々に教える教師でした。律法学者は、具体的にどう守れば良いのかを示す聖書の学者でした。
しかしイエス様は彼らについて、「偽善」と断言するのです。それは、彼らが教えたり表面的に守っていることと、実際の生活が矛盾していたからです。

ですから、イエス様が言われた「きよい」は、目に見えるきよさではなく心のきよさです。
「純粋」あるいは「裏表のない」という意味が強いです。


イギリスの説教者であるD・M・ロイドジョンズという人は、「結婚することの意味」という本の中でこのようなことを言いました。

「キリスト者生活には隔離室があってはならない。しかし、あなたがたが知っているように、それがよくあるのである。…『キリスト者であることはわたしの宗教生活にだけ属するもの、礼拝には関係するが、結婚とは全く関係がないし、仕事とも関係がない、両親との関係についても影響を及ぼすものではない…』
…日曜日の朝が来ると、『わたしは宗教的な人間である』と言って、宗教的なカバンを持って行くが、月曜日の朝になると、『わたしはビジネスマン』などと言って、別のカバンをさげて行く。そうであれば、わたしは幾つかの隔離室を持っていて、そこで生活していることになる」

人は心の中にいくつかの部屋を持っていて、ある部屋にはイエス様が住んでいるけれども、ある部屋は自分だけのものにしているということです。
それはパリサイ人たちのように、口で言っていることと、実際の生活が矛盾する生き方になります。

実に、聖書の教えや信仰生活は、キリストの福音が私たちの生活すべてに影響を及ぼすことを目指しているのです。

もし口でキリストの自己犠牲の愛を宣べ伝えても、自分がその愛を欠片も持っていないのであれば、それは矛盾した生き方になってしまいます。

心が、純粋ではないのです。裏表があるのです。
そこには真っ直ぐな信仰ではなく、神への疑いがあるのかもしれません。

信仰について、同じマタイの福音書でこのような出来事が記されています。

マタイ19:13, そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
マタイ19:14, しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
マタイ19:15, そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

弟子たちは、イエス様が忙しくされていたのを見て、子どもたちに煩わされてはいけないと配慮したのです。
しかしイエス様はなんと言われましたか。「邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」。イエス様は子どもたちを歓迎したのです。

イエス様が「天の御国はこのような者たちの国」と言われたのは、子どもたちが純粋にイエス様を求めて近づいたからです。

子どもは立場が弱く、いつも親に守られている必要があります。身を粉にして仕事をしているわけでもありません。
しかしイエス様は、子どもたちが持っている裏表のない心を評価されたのです。

実に、神様が見ておられる信仰とは、私たちが何を持っているかとか、何ができるかではないのです。
ただ、純粋にイエス様を求めているかどうかなのです。

イエス様は、私たちを一方的に愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。
それが分かったから、私たちは信じることができたのです。自分が何も持っていなくても、愛して救い出そうとしておられる方がいる。だから信頼することができたのです。

これは、いつになっても同じことです。私たちが奉仕をしようがメッセージをしようが献金をしようが、神様に対して誇ることではありません。
いつも、神様から与えられているので、すべての営みが送れます。いつまでも、私たちは神様の子どもなのです。親である神様に養われているのです。

ですから、もしイエス様を分離する隔離室のある生活を送っているのならば、初めの信仰に立ち返る必要があるのではないでしょうか。
誰を、なぜ信じているのか自分に問いかける必要があるのではないでしょうか。

子どものような純粋な信仰のあるところには、安らぎがあります。


③神を見る
マタイ5:8, 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

偉大な約束は、もし純粋な心でイエス様を求め、裏表のない生活をするならば、その人は神を見るということです。

神様を身近に感じ、ともに生活できるということです。
苦しむ時も喜びの時も、いつでも一緒に生きていけるということです。どれほど心強い生き方でしょうか。

【説教者:堺希望伝道】

2023.03.19 聖日礼拝

「御霊に満たされなさい」

引用聖句

Ⅰコリント6:19&20
19. あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20. あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

説教要約

今回私は入院して病院の中で伝道しましたが、Aさんという方に「神様が人間を造られた証拠」を渡して説明したらAさんはうなずいてくれたので、うまく行ったと思っていましたが、Aさんは看護婦さんに私に伝道されていることを言いつけたのです。看護婦さんは看護婦会議で皆さんに言ったのです。それが病院長に知れて、私はみんなの前で病院長から罵倒されました。

それで私は祈りました。「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」と御言葉にありますので、私はどうしたら良いのでしょうか?私は自分の知恵によって伝道したので、聖霊の導きによってやったのではないことが教えられました。ですから今日は「御霊に満たされる」方法について学びます。

Ⅰコリント6:19&20
19. あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20. あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

(A)聖霊についての説明
私たちは、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」の三位一体の神様を信じています。
この講壇にも縦、横、高さ、があるように3つで1つなのです。動物、植物、鉱物、とか
気体、液体、固体とか3つで1つなのです。

「父なる神」のことを私たちは神様と言っています。
「子なる神」=イエス・キリスト
「聖霊なる神」私たちは聖書を読んでもわからないところがありますので、聖書の家庭教師と考えればよいと思います。「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」(ヨハネ14:26)

(B)「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」の説明
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」
私たちの心の中には聖霊様が住んでおられるのに、私たちは何かを決める時、95~100パーセント自分の考えで決めています。これは聖霊様を無視していることだと思います。

「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」と言っておられるので、「聖霊様どうしたらいいでしょうか」と、聖霊様に尋ねるべきです。私は「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」を繰り返し、繰り返し暗唱します。すると、寝ているうちに、「こうしたらいいんじゃない」と、教えてくださいます。

自分で出来ることはほとんど自分の考えで決めています。自分で出来ないことにぶつかると「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」を暗唱します。そうすると寝ているときにアイデアが教えられます。

自分の限界にぶつかる所から恵みが始まります。一般的には自分の限界にぶつかると、あきらめてしまします。しかし限界にぶつかったところから、恵みが始まるのです。堺希望先生のメッセージからも教えられます。

ヤコブはお父さんをだまして長男の祝福を奪うのです。お兄さんのエサウは怒ってヤコブを殺そうとします。ヤコブはラバンのとこ所へ逃げます。ヤコブはラケルを愛したので結婚を申し込んだら、ラバンから騙されて14年間も働かされるのです。

それでも神様はヤコブを祝福してくださいました。そして神様はヤコブに「生まれ故郷に帰りなさい」と命令します。生まれ故郷には自分を殺そうとしているエソウが待っているのです。ヤコブは自分の財産を2つに分けて、その1つをエソウにあげて、エソウの怒りをなだめてもらおうとするのですが、それでもヤコブには平安がないのです。

それで最後に神様に、「私を祝福してください」とお祈りするのです。ヤコブは最後になってやっと「神様に私はどうしたらいいですか」と尋ねるのです。モーセは謙遜な人で、何か困ったことがあるとすぐ神様に尋ねています。

ダビデはバテシェバと姦淫の罪を犯し、その罪がばれないようにするために、バテシェバのご主人ウリヤを戦争の最前線に送り戦死したようにして殺すのです。預言者ナタンはたとえばなしをします。

「ある裕福な人は羊をたくさん持っていたが、友達が来た時、自分の羊を殺して御馳走にするのを惜しんで、1匹しか羊を飼っていない人からその羊を奪って殺し、自分の友達をもてなした。」

そのたとえ話を聞いたダビデは怒って「そんな奴は殺せ」というのです。その時ナタンは「そのひどい人はあなたです」というのです。ダビデは自分の罪を悔い改めます。神様はダビデの罪を赦してくださいます。このように人間はいつも自分の罪がわからないのです。

ガラテヤ 5:16,
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

肉の欲望を満足させるために、私たちはものすごく努力します。勉強もします。ものすごく努力する人と人がぶつかります。御霊によって歩まなければ、必ずぶつかります。御霊に満たされなければ解決の方法はありません。

(C)「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」の意味
創世記 2:17,
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
死ぬとは神様との関係が切れることを言います。

創世記 3:5,
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

神のようになりとは神様に従わなくてもよくなるということです。アダムとエバはエデンの園で神様の家族だったのに、善悪の知識の実を食べたので、悪魔の家族になってしまったのです。

「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」とは悪魔の家族から神様の家族に買い取られたという意味です。いくらで買い取られたのか、イエス様の命です。

ローマ 5:8,
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

イエス様が十字架で私たち罪人が受ける神様の裁きをイエス様が身代わりとして受けてくださったのです。

皆様私たちが何かを買いたいとき、自分の命を出して買いたいものがありますか。日本では臓器移植は禁止されていますが、臓器移植が許されている国で、子供のために臓器移植をするお母さんがいるかもわかりません。イエス様が私を悪魔の家族から神様の家族に買い戻すために自分の命を捨ててくださったのです。

黙示録 3:20,
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

イエス様を心に迎える人は、イエス様と一緒に聖霊様も心に入ってくださるのです。

復習しましょう

(A) あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、クリスチャンの心には聖霊様がいてくださる

(B) 「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」
クリスチャンの心には聖霊様がおられるのに、聖霊様を無視してほとんど自分の考えでやる。私たちはどうしても肉の欲望を満足させたいのです。そのために一生懸命努力します。御霊に満たされるように祈りましょう。

(C) あなたがたは代価を払って買い取られたのです。私はイエス様の命によって悪魔の家族から神様の家族に買い取られた。クリスチャンのうちには聖霊様がおられます。「聖霊はあなたがたにすべての事を教え」を暗唱することです。


【説教:大木英雄牧師】

2023.03.12 聖日礼拝

「天の御国の生き方⑥ -あわれみ深い者2-」

引用聖句

マタイ5:7

7.あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

説教要約

 マタイ5:3, 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
 マタイ5:4, 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
 マタイ5:5, 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
 マタイ5:6, 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
 マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
 マタイ5:8, 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
 マタイ5:9, 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
 マタイ5:10, 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

イエス様は、イエス様を信じた人に向けて、天国での生活、神様とともに生きる生き方とはどのようなものであるか、山上の説教を通して語られました。

先回に引き続き、山上の説教の中の「あわれみ深い者」について見ていきたいと思います。

先回は、あわれみの大きな特徴である「赦し」について見ました。
神様は私たちが人の罪を「赦す人」であることを望んでおられますが、それは私たちの器が大きいから期待しているのではありません。私たちが、自分の優しさや器の大きさで罪を赦せるなら、神様のあわれみとは何の関係もありません。

神様が私たちに下さった赦しが、果てしなく大きくあわれみ深いので、私たちもそれにならうことができるのです。
神様の赦しとはどのようなものだったかというと、「自分が損をする」ものでした。

罪を犯して、神様からの怒りの対象であり、滅びを待つしかなかった私たちです。赦しを請うなら、私たちがその償いをしなければなりませんでした。
しかし神様は、とても罪を償うことのできない私たちのために、ご自身が損をされる道を選ばれました。それは御子イエス様を人として送り、私たちが受けるはずだった神の怒りとさばきをイエス様に肩代わりさせたのです。
神様が一方的に犠牲と悲しみを背負って、私たちの罪を赦してくださったのです。それで、イエス様が自分のすべての罪を負って死に、よみがえられたことを信じる人は誰でも神様に赦され、永遠のいのちをいただけるのです。

それと同じように、神様の大きなあわれみを味わったクリスチャンは、自分も他の人を赦すことが期待されているのです。
これが「あわれみ深い者」の一つの意味でした。


今日見ていくもう一つの意味は、「実際に施しをする」という意味です。


①イエス様の施し

「施し」も「赦し」に似た面があります。「自分が損をする」ということです。
それはまず、神様から私たちに向けられたものでした。

 マタイ4:23, イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
 マタイ4:24, イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
 マタイ4:25, こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

イエス様の活動は、ことばで福音を宣べ伝えることと、実際に癒すという行為が伴っていました。
人々はイエス様が語られるみことばの素晴らしさを聞くとともに、実際にイエス様が病気の人々に接し、癒されるのを見て、イエス様に付き従っていくようになったのです。イエス様のあわれみ深さを味わったので、信頼するようになったのです。

本来は、イエス様が献げものを受ける立場です。
なぜなら、イエス様こそこの世界を造られた方であり、私たちを生かしておられる方だからです。

 コロサイ1:16, なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
 コロサイ1:17, 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

実に、イエス様が地上に来てくださったのは、ご自分がほめたたえられるためでも、何かを貢がれるためでもありませんでした。
逆に、人々から蔑まれ、人々に与えるためでした。誰からも受けることなく、ただ惜しみなくお与えになる人生を送られました。それは、ご自分の持っておられるすべてを犠牲にしてくださったということです。

イエス様が私たちに施してくださった最大のものは、そのいのちです。

 マタイ20:28, 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

イエス様が十字架にかかって死んでくださらなければ、私たちは永遠のいのちを得ることはなかったのです。神様との関係を持つことはできなかったのです。
ただイエス様が進んで払ってくださった犠牲により、信じる人はいのちを施されるのです。

では、イエス様は支払った分、何かを得たのでしょうか。
これが商売ならイエス様は見返りを得る必要があります。
信じた人は財産の8割を献金しなければならないとか、毎日20回のお祈りをしなければならないとか、奉仕を毎週8時間以上しなければならないとか。
これは馬鹿馬鹿しいたとえでしたが、このような見返りは一切ないのです。もしイエス様から見返りを求められたら、それこそ私たちにはお支払いできるようなものはありません。前回見た借金のたとえのように、私たちが一生働いても到底返せないような、私たちが負える責任を大きく超えたものを神様は支払い、赦してくださったのです。

では私たちは本当に何もお支払いしなくていいのでしょうか。はい、何もいりませんし、そもそも何かを払うということが人間にはできません。
何も返せない者に、イエス様はいのちを下さいました。これを何と表現すれば良いのでしょうか。
これぞ、神の愛なのです。

皆様は、神の愛をすでに知り、受け取りましたか。


②私たちの施し

では、イエス様の言われる「あわれみ深い者は幸いです」とはどういうことなのでしょうか。私たちが何もお返しをしなくて良いなら、誰かに施すこともいらないのではないでしょうか。

イエス様が仰られたことは、「神の施しを味わって、自分の意志でそれにならう者」という意味です。
前回の「赦し」もそうですが、まず神様が私たちに大きな犠牲を払ってくださり、それが分かった時、初めてならうことができるのです。

施しもまた、神様が自分にしてくださった施しとそこに込められたあわれみ深さを理解するときに、自分も同じように施すことができます。

その一つの例として、献金が挙げられます。
もともと献金は新約聖書の中で、貧しい教会を支える施しとして描かれています。新約聖書で献金は、「貧しい人を助けるための支援金」と同じ単語なのです。

 Ⅱコリント8:1, さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
 Ⅱコリント8:2, 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
 Ⅱコリント8:3, 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上に献げ、
 Ⅱコリント8:4, 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
 Ⅱコリント8:5, そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

ここでは、マケドニア地方の諸教会が、貧しいエルサレムの教会のために献金をした話が出ています。それは、彼らが金銭に余裕があったからではありません。むしろ「極度の貧しさ」にあったと書いてあります。
彼らが施しをしようと思った原因は、2節にあります「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜び」にありました。それは、まずイエス様が自分のすべてを捨てて自分たちに与えてくださったことの喜びでした。

 Ⅱコリント8:9, あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

彼らは、主のあわれみ深さを実感していたのです。それで3節では「彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上に献げ」たとあります。それは誰かに強制されたり、見返りを期待して献げたのではなく、ただ神に感謝して、「自分もイエス様にならいたい」と思ったからでした。
現代、なぜ礼拝で献金を献げるかといえば、それは神が自分にしてくださったことへの感謝の心からなのです。ですから感謝献金などとも言います。どんな施しも、まず神に献げられているのです。

そして、献金は私たちが富むためではなく、必要な人々に施されるために使われていきます。
それで教会では使途が明らかにされるための会計報告があります。献金は願い事を叶えるためのお賽銭でもなく、自分の優しさを示すための募金でもありません。
ただ神への感謝から献げられる、施しなのです。

ですから、こう言われています。

 Ⅱコリント9:7, ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神様が求めておられるのは、感謝の心から自発的に献げる献げものです。
もし義務感だったり(いやいやながら)、誰かの目を気にして(強いられて)献げるものがあれば、それはもはや献げものではなくなってしまうのです。

これは献金だけでなく、すべての施しがそうです。


③あわれみ深い者はあわれみを受け続ける

 マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

先回の赦すこと、そして今回の施すことはどちらも「自分が損をする」行為だと確認しました。
それは、人が自分の力でできることではありません。まずイエス様が自分にして下さったことを味わわなければできません。
イエス様は、とても赦されない罪を犯した私たちのために罪の罰を受け、滅ぶ私たちのためにいのちを捨ててくださいました。私たちが何かをお返しできるからではなく、ただ愛のゆえにそうなされたのです。

同じように私たちも主の愛を味わっているなら、それにならいたいと思いませんか。

また、ただ「自分が損をする」だけでは終わりません。ここには約束があって、「あわれみを受ける」のです。それは人からではありません。神様からのあわれみです。

 Ⅱコリント9:6, 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
 Ⅱコリント9:7, ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
 Ⅱコリント9:8, 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

 Ⅱコリント9:11, あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
 Ⅱコリント9:12, なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

神にならって施しをする人には、神様からあわれみを受けます。「すべてのことに満ち足」らせてくださるのです。なぜなら神への感謝から、「自分が損をする」施しをしている人はイエス様の姿を反映しているからです。見えない神様の姿がその人を通して現わされているのです。
主はその人が、ますます神様からのあわれみを受けて、ますます感謝でき、ますます励むために必要を満たしてくださるのです。

それはいつも神様と繋がって、神様に感謝し、神様のわざを行える幸いな道なのです。その人は天国の生活を先取りしているのです。


【説教者:堺希望伝道師】

2023.03.05 聖日礼拝

「天の御国の生き方⑤ -あわれみ深い者-」

引用聖句

マタイ5:7

7.あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

説教要約

①幸いな人

山上の説教の5回目です。
最初に出てくる「幸いな人」について順番に見ています。

この「幸いな人」とは、神様の目から見て「幸せな生活を送っている人」ということです。

「幸せな生活」の基準は人によって異なります。
ある人にとっては安定した生活が続くことが幸せかもしれません。ある人にとっては刺激的な日々であることかもしれません。または穏やかな気持ちで生き続けられることかもしれません。
それは人によって違います。

神様から見た「幸せな生活」のイメージがこの「幸いな人」なのです。この人について8つの特徴が語られています。

 マタイ5:3, 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
 マタイ5:4, 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
 マタイ5:5, 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
 マタイ5:6, 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
 マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
 マタイ5:8, 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
 マタイ5:9, 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
 マタイ5:10, 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

今まで見てきた通り、神様から見た「幸いな人」は多くの人が考える幸せとは異なります。
いつも「神様との関係」がどうなのかが問われているからです。

これまで見てきた前半4つの特徴は、自分でそうなるものではなく、いわば神様が気付かせてくださることでした。
「(神様に対する)心の貧しさ」
「(神様の)悲しみ」
「(神様の前の)柔和」
「(神様との)義に飢え渇く」ということでした。
これらは人が努力で変化できることではなく、神様が変えてくださる「心の状態」と言えます。
その始まりは、「私にはイエス様の犠牲が必要だ」という救いの求めです。

 マタイ4:16, 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
 マタイ4:17, この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

この世では救われることのない自分を、イエス様が救ってくださったのです。私達も「悔い改めなさい」というイエス様の呼びかけに応えたから、心の変化、神様との関係が始まったのではないでしょうか。

イエス様を信じた人に、「神様とともに生きる」とはどういうことなのかをイエス様は山上の説教で語っておられるのです。


さて、今まで見てきた前半4つには共通点があります。人が「すること」ではなく神様が気付かせてくださる「心の状態」だったということです。
この4つをまとめて覚えやすくするために、前半4つの特徴のみ元のギリシャ語では全部「P」の音から始まるようになっています。

「貧しい」=プトーコイ
「悲しむ」=ペンセオー
「柔和」=プラウス
「飢える」=ペイナオー

今日から後半4つに入りますが、前半に比べて後半はもっと実践的な教えと言えます。
前半4つの状態は「神様と私の関係」が中心だったのですが、今度はそこから進んで「隣人と私」が中心になるからです。




②赦すこと

 マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

今日見ていくのは、「あわれみ深い者」です。
あわれみ深いというのは、同情的であるとか感受性が強いことよりも、「人に対して実際に施しをする」という意味です。

喜捨という言葉が日本語にもあり、貧しい人や仏に財産を施すという意味です。
仏教やイスラム教でも「すべきこと」として勧められているようです。

聖書もまたクリスチャンに「喜んで施すこと」を勧めていますが、他の宗教とは理由が異なります。
クリスチャンに施しが勧められている理由は、「神様が私にして下さったから」に他なりません。


聖書の言うあわれみには、大きな特徴があります。
その一つが、「赦す」ということです。

同じマタイの福音書の中で、イエス様がこのように例え話を始められました。

 マタイ18:21, そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 マタイ18:22, イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
 マタイ18:23, このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
 マタイ18:24, 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
 マタイ18:25, しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。

王様に1万タラントの借金があるひとりのしもべが登場します。
1万タラントとは、17万年分のお給料を指します。もう一度言いますが、17万年分のお給料のことです。

この途方もない借金を王様に返さなければならなかったので、しもべは自分と家族と持ち物をまず売ってお金を返すように言われます。

 マタイ18:26, それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
 マタイ18:27, しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

しもべはひれ伏して、王様に待ってくださるよう懇願します。
すると王様は、そのしもべの姿を見てかわいそうに思って、なんと全額免除してくださったのです。
17万年分のお給料と聞いても、想像できないほど途方も無い数字ですが、それを減額したり猶予したりするどころか、全額免除してしまったのです。

この王様は神様を例えています。
そして、王様に17万年分の給料の金額を借金したしもべは、私達のことです。
借金は、私達が神様に対して犯し、負っている罪のことです。

神様から見た私達の罪がどれほど重いのか、少し想像できるのではないでしょうか。
17万年分では、死ぬまで頑張って働いても、到底足りません。自分の持ち物や自分の人生を売っても全然足りません。
罪びとであるとは、このような果てしない重さがあります。
そんな人生の中で、そもそも神様に何かを求めたり、自由を主張できる立場なのでしょうか。ただ責めを負って滅びていくしかできないのではないでしょうか。

しかし、驚くべきは王様、神様の「あわれみ」です。
神様は私達を見て、かわいそうに思い、すべての罪をただイエス様が負われるようにし、赦してくださったのです。

例え話の続きに戻りましょう。
王様に、17万年の給料分の借金を一方的に赦されたしもべはどうしたでしょうか。

 マタイ18:28, ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
 マタイ18:29, 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
 マタイ18:30, しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

今度は、しもべ仲間が出てきます。その仲間は、最初のしもべに100デナリの借金をしていました。
100デナリとは、100日分のお給料のこと、今でいうと100万円の感覚です。
王様に赦されたしもべは、仲間の首をしめて、「借金を返せ」と迫ります。しもべが王様にしたように、仲間もひれ伏して「待ってくれ」と懇願するのです。
しかししもべは、その仲間を赦さず、奴隷の身分として牢屋に入れてしまうのです。


しもべは、自分が王様から赦された借金の大きさや、王様のあわれみの心を忘れて、ずっと小さな借金をしている仲間を赦さなかったのです。

 マタイ18:31, 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
 マタイ18:32, そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
 マタイ18:33, 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
 マタイ18:34, こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
 マタイ18:35, あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

しもべの仲間は、しもべに100デナリ=100万円ほどの大きな借金をしていました。それも大きな借金でしょう。
しかし、しもべ自身は、王様は1万タラント=17万年の給料分を借金していたのです。それに比べれば100デナリは、取るに足らない金額です。

聖書が言う「赦す」ということは、「自分が損をする」という性質を持っています。
王様はしもべを赦した代わりに1万タラントを失いました。
イエス様は、私達の罪を赦すために、ご自分のいのちを失いました。

しかし、しもべがほんの100デナリを赦せなかったのは、自分が赦していただいた物の大きさを知らなかったからです。
王様は大きなあわれみゆえに、1万タラントを我慢されました。
しかししもべはあわれみの心がなく、100デナリを我慢できなかったのです。

私たちは、自分自身の罪の大きさをどれだけ理解できているのでしょうか。
その罪を赦すためにイエス様が払って下さった犠牲に、どれほど感謝しているのでしょうか。

神様が私達に期待しておられるのは、私達の優しさとか努力で人に負わされた100デナリを赦すことではなく、私達が赦された1万タラントの大きさゆえに人の100デナリを赦すことです。
イエス様が払って下さった犠牲には全く及ばないけれども、同じあわれみの心を持って「自分が損をして」人を赦すのです。

ただ、「自分が損をする」ことで終わるわけではありません。

 マタイ5:7, あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

もし、イエス様の犠牲を覚えて、自分もそれに習うなら、他ならぬ神様から「あわれみを受ける」という約束がされています。
それは、はじめにイエス様から受けたあわれみを受け続けることでもあります。

人に与えたり、赦すときに私たちは犠牲を払います。
しかしそのような時、実は失っているだけではないのです。その人は神様の近くにいて、神様と一緒に歩んでいるのです。
神様からあわれみを受け続けるのです。


【説教者:堺希望伝道師】

powered by crayon(クレヨン)